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『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて』

まえがき

その朝から、83年、「忘れない」ことを心に決めたように生きた女性がいた。「兄のすべてを記憶する」という使命を自らの人生に課したように、ノートに記し、手紙につづり、2019年6月に104歳で逝くまで、年間、兄を語り続けた。

波多江たまさん。1936(昭和11)年7月12日朝、二・二六事件で死刑判決を受けて銃殺刑となった青森市出身の青年将校、対馬勝雄の6歳下の妹だ。

わずか500部が世に出た『邦刀遺文』という本がある。勝雄の短い生涯の記憶を残そうと、遺族が戦後になって自費出版した。長い手記を書き、編集の中心になったのが、たまさん。河北新報記者時代の私が、東北の歴史を主題にした新聞連載の取材の中で知り、弘前市の自宅に初めて訪ねたのが1999(平成11)年だった。

二・二六事件は「昭和の大凶作」の時代を背景に、青年将校たちが「農村救済」を旗印の一つに掲げて蹶起した。が、激烈な訴えの獄中手記を残した磯部浅一、首相官邸を先頭に立って襲撃した栗原安秀、歩兵第三連隊を動かした安藤輝三らのような首謀者ではない勝雄のことは、ほとんど知られていなかったのではないか。その時たまさんが話したのは、悲劇の軍人譚ではなく、津軽の農家出の貧乏所帯ながら、義侠心篤い父、優しく明るい母、仲の良い四人兄妹の浜の町の暮らしだった。親孝行で聡明で妹思いの兄の肖像を、今もここに生きているかのように物語った。

そして、「遺族は長い間沈黙を強いられたけれど、事件をやっと公に語れる時代になった」、「『私心』というものがなく、貧しい人々を助けたい一心で立ち上がった兄の真実を伝えたい」と、戦中戦後を通して胸に秘め続けた思いを吐露した。

妹の心情を、私は連載の一本にまとめた。喜んでもらえたが、千余文字ではとても伝えきれぬ悔いが残り、それからも弘前訪問を重ねて、「お兄さんの本をいつか、たまさんに読んでもらいますね」と約束までした。しかし、2011年3月11日に起きた東日本大震災、福島第一原発事故がそれからの歳月、福島出身の私を被災地取材に明け暮れさせた。たまさんは、原発事故や今の時代の政治に、自ら知る戦前の暗部を重ねた警句を込めながら、私に励ましの手紙を毎月のようにくれた。そこにも勝雄の思い出をつづり、やがて兄のもとへ旅立った。

再び悔恨に襲われた私に、娘の多美江さんから送られてきたのが、勝雄の手紙や写真と、たまさん自筆の大学ノート十数冊分のメモ。『邦刀遺文』の基になったもので、鉛筆書きで勝雄と家族の歴史がつづられ、たどたどしいが、あの時代に居合わせた者だけの克明な描写、生の感情と肉声が数々息づく。伝えたい執念が残した『記憶のノート』と、後を託された私は名付けた。津軽の浜から二・二六事件まで、兄と妹の生きた軌跡を読み解くことから本書が生まれた。

(2021年10月12日刊行 寺島英弥『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて』まえがき)

(了)