「まえがき」の部屋

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『時をかける台湾Y字路』

まえがき

Y字路をめぐる最初の記憶は、小学生時代にさかのぼる。

わたしが当時住んでいたのは、山口県の山陰側にある小さな温泉まちである。時は1980年代前半、明太子工場から流れでる鮮血のように生臭い排水がじかに川へと流れこみ、出で湯は歓楽的な喧騒のように湧いて、ほのかに開いたキャバレーのドアの隙間から、これも明太子のような紅い灯の向こうに白い乳房と太ももが透けてゆらめいてみえた。

家から遥か彼方にあった小学校からの帰り道、明太子色の川にかかる橋を渡ると、そこにY字路があった。

Y字路の左右どちらを進んでも、海をのぞむ高台にある我が家までたどり着くが、低学年のころは通い慣れた右側の通学路を歩くのが常だった。しかし学年があがると、左の道を途中まで共にできる友人があらわれた。少しの時間でもたくさんその子と一緒にいたくて、左の道をよく帰った。しかし学校から定められた通学路は右の道だったから、左をゆくには罪悪感がつきまとった。そのうえ、左の道から家にたどり着くまでは、右の道から帰るよりもずっと過酷な「心臓破りの坂」があった。野犬の群れに追われたことさえある。それでもよく、こっそりと左側の道を選んで歩いた。

行きはよいよい、帰りはこわい。右に行こうか、左にいこか?

これがわたしのY字路についてのコンブレーである(20年ほど後にふたたびわがコンブレーを訪れたが、すでに川は明太子色でなく、家から学校までは印象ほど遠くなかった)。

思えばこれまで無数のY字路にさしかかり、右か左かを選んできた気がする。13年前も、わたしは大きなY字路の前に立っていた。そして結婚という事件に背中を押されて「台湾」へとつながる道のほうに歩を進めた。それまでは台湾で暮らすようになるなんて、思ってもみないことだった。

台湾にきてから、わたしの人生観を大きくゆさぶる出来事があった。初めて会った夫の大伯父からかけられた一言である。

「わたしは、忘れられた日本人なのです。」

台湾の日本時代に生まれた大伯父は、日本帝国軍人としてフィリピンへも出征していた。日本が台湾を植民地にしていたことは朧気ながら頭にあったが、日本人として生まれ日本人として大きくなったのにもかかわらず、終戦ですべて失った人たちがいること、そして日本ではそれらのことがほとんど知られることなく、学校で教えられてもいないことに言いあらわせないほどショックをうけた。加えてなにも知らない無知な自分を、恥ずかしく腹立たしく思った。

台湾のことをもっと知りたくて、本を読んだり日本語世代と呼ばれる方々の勉強会に参加して話を聞くようになった。知ったことを伝えたいという思いがつのり、執筆活動を始めた。そんなときわたしの眼前に現れたのが、台湾のY字路たちだった。

MRT古亭駅ちかくのとある居酒屋を取材した帰り、ふとお店のほうをふりかえったら、そこがY字路になっていた。木造の日式住宅と中華風の派手な廟とキリスト教の教会と多様な文化がミックスして混沌とした面白さがあり、夜だったことも相まっていかにも横尾忠則さんのY字路シリーズを思わせた。写真を撮って、SNSに「横尾さんの絵みたいなY字路発見」と投稿したら、ある台湾人の友人がコメントをくれた。

「どうしてそこがY字路になったかというと、右側の通りはかつて川だったからだよ」と友人はY字路成立の理由を教えてくれた。古い地図をさがして確認すると、なるほど確かに川が流れている。台北には他にもたくさんのY字路があるけれど、それらはどうしてY字路になったんだろう? そんな好奇心が温泉のように湧いてきて、他の場所についても調べ始めた。Y字路の成り立ちから埋もれた物語を発見していくにつれて、普通の三次元だった台北のまちが突如、IMAXの眼鏡をかけたように「失われたとき」を帯びた四次元的なものとして立ち現れてきた。かくしてわたしはY字路と恋に落ち、台北じゅうを歩き回りはじめたのである。

思いがけなかったのは、台湾のY字路たちが一見黙ってそこにいるように見えながら、驚くほど饒舌なことだ。Y字路と向きあっていると、台湾のみならず、日本が、故郷が、そしてわたし自身がどこから来てどこへ行くのかをおしえてくれる。Y字路が語りかける言葉を聞くために必要なのは、歴史にたいして静かにそばだてる目と耳、それだけである。

さあ、記憶のワンダーランドへようこそ。

(栖来ひかり『時をかける台湾Y字路』まえがき)

(了)