神学漂流 魂のドイツ修行

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ドイツ神学の巨匠を訪ねる(2)~エバーハルト・ユンゲル

1996年の秋、テュービンゲン大学のエバーハルト・ユンゲル教授を訪ねるために、私はルフトハンザに飛び乗った。ユンゲルの著書はモルトマンに比べると邦訳が少なく、しかもそのドイツ語はモルトマン以上に難解であり、まるで神秘のヴェールにつつまれているように感じられた。それにもかかわらず私は直感的に「この人こそイエス・キリストの十字架について学ぶべき師匠だ」と感じていた。ユンゲルは古代から現代にいたる西洋思想の厖大な知識を持っていた。そこにはキリスト教とは全く異なるギリシャ哲学や、キリスト教を否定する無神論も含まれている。だがユンゲルはそれらをすべて読みこなしながら、それを突き抜けて超えるようなイエス・キリストの大きさと奥深さを力強く語っていることに私は魅かれた。

当時テュービンゲン大学の福音主義(プロテスタント)神学部において、モルトマンとユンゲルは組織神学部門の二大巨匠としてその名を世界に轟かせていた。モルトマンは第二次世界大戦中、爆撃の中で死線をさまよった経験を通して、イエスの十字架と復活がもたらす「希望」を発見し、神学者となった人物である。これに対して一世代下のユンゲルは、東西冷戦時代、旧東ドイツの独裁政権下で弾圧を受ける中、イエスの福音が人間に真の「自由」をもたらすことを経験し、神学者となった人物である。私がテュ―ビンゲンを訪ねた90年代後半、モルトマンはすでに名誉教授となって博士候補生だけを指導していたが、ユンゲルは現役の教授として多くの講義やゼミを担当していた。

Eメールをまだ使えなかった私は、日本からユンゲル教授にFaxを送って訪問の意思を伝えた。それから数日と経たず助手の人から丁寧なあいさつが送られてきて、会えることになった。現地に着くと私はまず公衆電話から研究究室に電話した。助手とおぼしき人が応対してくれた。私はドイツ語に自信がないため英語で話そうとしたが、もっぱらドイツ語で応対された。ということは、ここから先はいよいよドイツ語しか使うことを許されない世界に踏み込むらしい。まるで逃げ道のない未知の世界に踏み込んでいくような緊張を電話口で覚えた。

そのような不安をよそに、テュービンゲンは夢のように美しい古都だった。中世以降の古い建物が立ち並び、石畳の路地が複雑に入り組んでいた。その古都の中枢に、テュービンゲン大学は十五世紀に設立された。日本で言えば応仁の乱の時代であり、日本のどの大学よりも数百年も古い。

 


テュービンゲンの美しい街並み。

 

テュービンゲン大学神学部の建物は四階建てで、天井が高く白色を基調とした荘重な建物だった。その最上階にユンゲル教授の部屋があった。

各教授は週一回一時間の面会時間を持っており、私も指定された時間にそこに向かった。教授室の廊下には、ユンゲル教授との面会を待つ学生が何人か、神妙な面持ちで並んで座って待っていた。ユンゲル教授には学術助手が三人、さらにお手伝いの人が一人ついて、身辺を固めていた。

いよいよ自分の番が回って来て、助手の人に招き入れられると、見上げるような長身のユンゲル教授がゆっくりと現われた。「どうぞお座りください」と言われ、広い机を挟んで向かい合って座った。

私は「グーテン・ターク(こんにちは)」以外に社交辞令を何も用意していなかった。ただ頭に叩き込んで暗記しておいたドイツ語で「あなたから十字架のことを学びたいです。十字架について博士論文を書きたいです…」とたどたどしく話しはじめた。

だが次の瞬間、私は震えあがった。ユンゲル教授がにこりともせず、氷のように冷たい目で私を睨みつけているのに気づいたのである。モルトマンの明るく温かいオーラとは真逆の、氷のように峻厳な眼差しが私に突き刺さった。人の目を直視しながら会話するドイツ人の習慣に私が慣れていなかったせいもあっただろう。けれどもこれほど深くて怖い眼光を私は今まで見たことがなかった。その眼は「あなたは正気ですか? 諦めてすぐ帰りなさい」と言っているように感じられた。

だが「ここで逃げたらすべてが終わってしまう」と思い直し、私は一呼吸おいて、暗記していたドイツ語でとにかく言いたいことを最後まで伝えきった。私が精一杯言えたのは「イエスの十字架において神が啓示されるということは本当なのか、それ以外に啓示の可能性があるのかどうかを学びたいです。それをテーマにして博士論文を書きたいのです」ということだけだった。

ユンゲル教授は私のあまりにも拙い主張を聞き終えると、ほとんど聴き取れない早口で何かを語り始めた。かろうじてわかったのは「あなたの問いには答えがありません。一歩一歩順序を踏んで学んでいくほかありません。それでも答えはないかもしれません」というようなことだった。


ユンゲル教授の評伝『Eberhard Jungel: An Introduction to his Theology』のカバー

 

その後でユンゲル教授は「あなたはタキザワを知っていますか?」と質問してきた。そして広々とした教授室の一番奥へと案内してくれた。そこには日本の宗教哲学者である滝沢克己から贈られた、達筆の大きな掛け軸があった。滝沢は当時のドイツ人に強い印象を与えた数少ない日本人の思想家の一人だった。滝沢は西田幾多郎の弟子でありながら、西欧の代表的な神学者カール・バルトを訪問し、その後生涯にわたって日本の仏教と西洋のキリスト教のあいだの対話に力を尽くしたからである。ユンゲル教授も滝沢を尊敬していることがよく伝わってきた。「タキザワのように一歩一歩、自力で考えて、学びなさい」とユンゲル教授は言った。その言葉は、何も知らない日本人学生に向かって「やってみなさい」と励ましているようにも、「道は険しいですよ」と警告しているようにも聞こえた。

こうしてテュービンゲン大学神学部に春から入学する準備が整っていった。そして1997年3月末、東大の大学院博士課程を退学した。日本語で博士論文を書くというキャリアステップを最後に放棄して、九年間にも及んだ日本での学生時代は終わった。

私は「日本では博士論文を書けなかったが、ドイツに行ってから二、三年で十字架について博士論文を書こう」と考えていた。それがどんなに無知で無謀な計画か、私はわかっていなかった。そもそも自分が十分に習得していない外国語を使って、十分に勉強したことのない学問を学ぶことがどれくらい過酷なことか想像さえできなかったのだ。そればかりか、ユンゲル教授が学生に対して極めて厳しく要求が高いこと、ドイツ語を母国語としない(つまりドイツ語が堪能ではない)学生が彼の下で博士号を取った前例が一つもないということさえ知らなかった。

日本を発つ前、カトリックの知人が、神父の人が祈って祝福してくれたという十字架像をプレゼントしてくれた。私はそれを大切に手荷物の中に入れて、再びルフトハンザに乗った。28才の春だった。

 

 

(つづく)