第11回
物語の結末を考えるとき
100歳目前の自死
前回の佐々木さんに限らず、口に出す出さないを問わず、高齢者は何らか人生の決着について考えているのかもしれない。その時ふと、3年ほど前の3月の新聞の数行の記事が甦った。「100歳になりたくない」と話していた99歳の女性(以下Aさん)が海岸の波打ち際で遺体で発見された。自ら入水したことによる自殺のようだと報道されていた。100歳という通常なら長寿を寿ぐ年を目前にして、なぜ、自らの意思と行動で命を絶ったのか、強い関心を抱いた。しかし自殺なので、新聞にはそれ以上の報道はなかった。
そこで週刊誌やインターネットの記事を読んでみた。そこには、次のような情報が記されていた。女性は夫とはかなり前に死別し、閑静な住宅街に一人で暮らしていた。連絡がつかないことを心配した家族から捜索願が出された。警察は防犯カメラの映像などから、自分で海に歩いて入っていく姿を確認したという。自宅から亡くなった海岸へは電車等を乗り継ぎ、4、50分はかかる。ということは、たまたま海岸を散歩してふっとそんな気になったというわけではなく、海に行き入水するという強い意志があったようだ。
3人の子どもからは、毎朝、安否確認の電話があり、2週に1回くらいの訪問もあった。一緒に旅行に行くこともあり、白寿のお祝いもしてくれた。Aさんは近所の人の目には、年金もあり経済的な不安はなかったように見える。近隣の人とも会えば必ず挨拶を交わし、毎日3、4キロ散歩するなど常に健康に気を配っていて、足腰は丈夫だった。
傍目からは幸せな老後に映ったが、口癖のように「100歳まで生きたくない」「こんなに長生きしてかっこ悪い」と漏らし、「おばあちゃん」と呼ばれることを極端に嫌がっていた。
前年の12月に99歳になってから、業者を呼んで家の中を整理し、まだ寒い日もある2月のうちに、近所の男性に手伝ってもらい暖房機を外に出すなどしていた。
Aさんがもうひとつよく口にしていたことばは、「友達がいない」だった。10年位前までは、同じ年ごろの仲間とゲートボールをしていたが、ひとりまたひとりと病気になったり亡くなったりして抜けていき、結局、解散してしまったという。
死者は黙して語らない。多くの自殺がそうであるように、Aさんが自ら死を選んだほんとうの理由は誰にもわからない。したがってここからは私の推測に過ぎない。
晩年の喪失の積み重ね
100歳目前にして自ら命を絶ったということは、Aさんにとって、99歳と100歳の間に越えがたい境があったのかもしれない。大晦日と元旦がそうであるように、特別な切り替え時ともいえるし、単にすぎゆく1日ともいえる。大晦日と元旦は毎年繰り返されるが、100歳はAさんには未知の領域ゆえの不安があったのだろう。
百寿者は、老人福祉法が制定された昭和38年は153人に過ぎなかった。しかし、栄養状態の改善や予防医療の普及によって平成10年には1万人を超え、現在、全国に7万人ほどで稀有なこととは言えなくなった。しかしそれは全体を通して言えることで、ひとりひとりにとって想像がつきにくい年齢であることに変わりはない。そこには潜り抜けなければならない「失うことの悲しみ」がある。
高齢期は失う体験がついて回り、それが複合的、連鎖的であることから「複合喪失」期とも呼ばれている。長く生きれば生きるほど、配偶者、友人等親しい人や身近でともに生きてきた人と別れていく確率は高まる。その寂しさは「半身をもぎ取られる」と表現されるように痛く辛く、孤立感や孤独を深め深刻な心理状態になる場合も多い。
また、喪失は死に別れることだけに限らない。誰にも訪れることとして、抗いがたい身体の衰えがある。今まで苦もなくできていた動作が痛みを伴い困難になるなど、老化による身体の機能低下や健康の喪失などを数多く体験する。それは、自分が自分でなくなるような体験で、生きる希望が見いだしにくくなる。老いるということ自体がそのような身体的喪失のプロセスといえる。
その結果、支援が必要になると、役割や自尊心を失くす場合も少なくない。これにさらに居を変えることが加われば、環境の喪失ともなる。そのような喪失をひとつひとつ受け入れなければ高齢期を過ごすことは難しい。しかし、ひとつ受け入れてもまた次の喪失に出会い、喪失の体験は生きていく限り終わることはない。
そういえば、わが父も92歳の時、「自分は老人ではない」と叫んでいた。その時、父は唾液腺腫瘍を切除した直後で、ストレッチャーで手術室から病室に運ばれているところだった。良性の腫瘍であったが全身麻酔でもあり、無事に目が覚めたのを確認した私はやはり安堵した。駆け寄って思わず父の頬に触れた。しかし父は件の台詞とともに、私の手を強く払いのけた。誰がどう考えても老人という部類に入る父の言動に戸惑い、呆れた。しかしそれは、今振り返れば、老いを強く意識するからこそ発せられた精いっぱいの抵抗だったのだろう。90歳までスポーツジムで体を鍛え、英会話教室に通って自助努力を続けてきた自負もあった。自分の人生をそのままのペースでコントロールし続けられない苛立ちが、あの叫びにつながったのだろう。
つながりと役割
Aさんの周囲は家族をはじめ自分より若い人ばかりで、感情を共有できる相手がいなかったのかもしれない。個人差はあるが、90には90の、100には100の感じ方や人生の受け入れ方があるだろう。ヘルパーさんが入っていたという記述はある。しかし、老いや死に対して誰とも本音で分かち合えず、Aさんは遠からず訪れる死に、ひとりで立ち向かう重さに耐えられなかったのかもしれない。
訪問診療を通して人の死に多くかかわって来た大井玄氏は『人間の往生』という著作の中で「生死のバランスが生に傾くのか、死に傾くのか、それを決める大きい要因は「居場所」を得ているという感覚の有無」と述べた後、「したがって健康を失っても「人間関係」という他者とのつながりが保たれているならば、さらに言うと他者の「ため」になっているならば、人は満足していられる。」と結んでいる。
これは本人の置かれている状況の如何を問わない。たとえ、要介護であり、他者の支援を必要としても、その感覚を得ることは不可能ではない。
私は今、地域で見守り活動をしている。見守っている85歳の女性高齢者は、週1回デイサービスに通うようになり、そこで、70代の男性高齢者と出会い、彼の話に真摯に耳を傾ける。彼は言う。「自分は人工透析を受けてまで生きる意味がわからないと周囲から言われている。確かに透析を受けることは大変だが、それによって今日一日の生を目いっぱい楽しめる」と。女性高齢者はそのことばに深い共感を覚える。共感の一瞬をふたりで味わった後、彼女は次のように私に語っている。「わたしはそろそろ人生を終わりにしていいと考えていたが、もう少し意欲をもって生きていきたいと思う。わたしにも果たせる役割があり、周囲の人がどう生き、どう人生を仕舞っていくのか見届けたいから」と。死に向かいつつある同年代の人たちの話を聞き取り、それを次の世代に伝えていくことに、自分の役割を見出したようだった。
つながりから「個」に移行する社会の中で
ところで、日本型の価値観は他者とのつながりを重視する価値観だという。一方、欧米の価値観は自分を他者と明確に区別し「自己」を強く意識した価値観と言われている。自己決定、自己責任が強調される社会の中で、最近では欧米の価値観もかなり浸透してきているように見える。しかし、老いのプロセスは、今までの自分を手放さざるをえず、すべてにおいて主体的であることから下りることを求めてくる。その時、人によっては今まで培ってきた自尊感情を放棄しなければならない敗北感が生まれる。
では、ひるがえって、人間の価値とは何なのか? 何かができ、何かをなすから人間には価値があるのか? それは意思疎通ができない重度障害者は生きている価値がないという考え方と合い通じるものがある。生きている、ただそれだけで価値があるとは言えないのだろうか?
そこには、人生とは何か、生きることの意味とは何かという深遠な問いが隠されている。むろん、正解はない。むしろ私たちが自分の人生をどう意味づけるか、一人ひとりの中にこそ、答えがある。
前回登場した看護師の鈴木さんが、聞き取りの中で「ピュアな光」と表現したのは、表面的なところを突き抜けたその人の人生に対する向かい方をさしていたのだろう。自分が創造する物語すなわち「自己物語」は、そのようなところから紡がれていく。
しかし、日常の中で、自分の物語が意識されることはほとんどない。最晩年には、日常生活を支援しながらも、そこに視点を置く、それがケアする人に求められていると思えてならない。
(つづく)