「ほんとうのさいわい」につながる仕事

1

今、なぜ、宮沢賢治なのか

今年、没後90年となる宮沢賢治は、「ほんとうのさいわい」を追求した作家・思想家です。彼の「仕事」に関する思想や実践に注目し、その生涯と作品をひも解きながら、「何のために、どんなふうに働けば、幸せな人生を送れるのか」を探っていきます。

もしも、働かなくてもよい世界ならば

あなたは何のために働いていますか?

そのように問われて、私がまず思いつくのは、「生計を立てるため」、「生計を立てられるようなキャリアを継続するため」という理由です。
それでは、生活のために働く必要はない世界になったら、どうでしょうか。それでもまだ働く理由があるでしょうか。

私なら、とりあえず仕事はやめて、好きなだけ本を読んだり、旅行に行ったりして、遊び暮らしたいと思います。ですが、そんなふうにずっと暮らしていると、飽きてしまうのではないでしょうか。

いくつか条件が違っていますが、私には似たような経験があります。高校生の頃、「世の中のすべてが馬鹿馬鹿しく、人生は真面目に生きるに値しない」という極端な心理状態になり、入学後1か月で通学をやめてしまったことがあります。親に養ってもらっている立場だったからできることですが、思い切って、とにかくやりたくないことをすべてやめてみました。そして、一日中ゲームをしたり、漫画を読んだり、寝ていたり、好き放題な生活を送りました。

しかし、3か月ほど経つと、何か物足りなくなってきました。そこで、あらためて「人生の意味とは?」と考えるようになり、純文学を読んだり、哲学書を読んだりするようになりました。そんなふうにして図書館に通い、公園で本を読む暮らしを続けるうちに、もっと深く学びたいと思い、高卒認定を取って大学に進学することを決意しました。それは、通学をやめてから約半年後のことです。

この経験は、仕事ではなく、学習に関することなので、その点には留意が必要ですが、私にとって「何のために働くのか」を考える原体験になりました。あれほど学校での勉強が嫌だったのに、自ら学び始めた途端に、学びという行為がどんな娯楽よりも面白く、やりたくて仕方がなくなったのです。それと同じように、楽しくて仕方がないから仕事をすることはできないのでしょうか。

実は私は、企業に就職して以来、ずっとそんな働き方を目指してきました。そして、自分の好きな業務ではそのような状態で仕事をすることもできるようになりました。ですが、やはり、すべての業務が「やりたい仕事」になることはありません。私にとっての「やりたくない仕事」が誰かにとっての「やりたい仕事」になるなら、システムを工夫すればよいことです。ですが、私にとって「やりたくない仕事」が、他の人にとっても「やりたくない仕事」のこともあるでしょう。その場合、自分の都合だけを考えれば、それを別の人に任せるという選択肢もあると思いますが、本当にそれでよいのでしょうか。

本当の幸福とは何か?

そんなことを考えていると、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉が聞こえてきます。そもそも世界が幸せにならなければ、自分が幸せになることもできないというのです。ここでの世界には、人間はもちろん、動物、植物、さらには鉱物や風や光も含まれるようです。この言葉を最初に知ったとき、「まずは自分や周囲の人たちの幸せを大切にし、それを広げていけばよいのでは?」とも思いましたが、何か心に引っかかるものがあります。

仕事の楽しさは大切ですが、自分の楽しさを追い求めるだけでよいのでしょうか。「自分だけが楽しい世界」と、「みんなが楽しい世界」、どちらがよいのでしょうか。私は後者を選びます。ですが、その想いの強さは、どちらかといえばそうあってほしいという程度のものかもしれません。

それに対して、賢治は、「みんなが幸せになる世界」の実現のために人生を賭けました。その決意の激しさは、二人の少年が銀河を旅する童話「銀河鉄道の夜」のワンシーンにも現れています。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「まことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい」と祈り、夜の闇を照らす星になったサソリにならい、少年ジョバンニは「みんなの幸」のために生きる決心を語ります。その上で問題になるのは、「本当の幸福とは何かがわからない」ということです。私もストレートに「本当の幸福とは何か」と問われると、頭を抱えてしまいます。私が追い求めてきた「楽しさ」は幸福にとっての条件の一つかもしれませんが、それが、本当の幸福と言えるのでしょうか。


さそり座

「本当の幸福とは何か」がわからないとすれば、みんなの幸福を実現することはもちろん、自分の幸福を実現することも難しいでしょう。わからないままに生きるとすれば、コンパスなしに目的地を目指すようなもので、幸福からは正反対の方向に向かってしまうかもしれません。

ですから、まずは「本当の幸福とは何か」という問いに自分なりの答えを出すことが重要なのです。

「実践家」としての宮沢賢治

この問いに答えを出すことは途方もないミッションですが、それに暫定的な回答も出さずに生きていくことの方が恐ろしいことです。そのため、この連載では、賢治が遺した「ほんとうのさいわい」とは何なのかという問いに正面から挑んでいきます。「銀河鉄道の夜」の作中人物であるジョバンニとカムパネルラは、この問いに答えを出すことができていませんが、賢治の作品や生涯の中には、この問いを考えるためのさまざまなヒントが埋まっています。

さらにこの連載では、「ほんとうのさいわい」に関する暫定的な回答を出すとともに、「何のために、どんなふうに働けば、幸せな人生を送れるのか」という、実践的な課題への解決案を示すことを目指します。漠然と人生に対する指針のようなものが得られるだけでは、日々私たちが生きている現実をより豊かなものに変えていくことはできないからです。

実は、このような「仕事」にまつわる実践的な問題に取り組むヒントも、賢治が与えてくれます。彼は「作家」として有名ですが、「思想家」でも「実践家」でもありました。そして、彼の思想と実践の重要なテーマの一つが「仕事」にまつわるものなのです。

例えば、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、「農民芸術概論綱要」という講義ノートに登場します。「農民芸術」という考え方は、農業に関わる人たちの仕事と生活を、どうすればもっと楽しく豊かなものに変えることができるかという問いから生まれたものです。彼は、この考え方を「羅須地人らすちじん協会」で実践しました。これは、彼が農学校の教師をやめ、自らも畑を耕すようになったときに開いた私塾とも文化コミュニティともいえるものです。

「仕事」や「働き方」に注目しながら生活全体の改善を目指すという姿勢は、ウィリアム・モリス(英、1834-1896)に比せられるものです。モリスは、テキスタイルデザイナー、ファンタジー小説家、詩人、建築保護運動家、社会主義活動家など多方面で活躍した人物です。これらの領域はすべて、彼が牽引したアーツ・アンド・クラフツ運動とかかわりがあります。この運動は、中世の手仕事に立ち戻り、生活と芸術の統合を目指したものです。モリスの思想と実践は、賢治にも影響を与えました。


ウィリアム・モリスによってデザインされたテキスタイル{{PD-US}}

賢治の姿勢は素晴らしいものでしたが、「羅須地人協会」という試みが成功したとは言えません。また、宮沢賢治は農学校の教師や砕石工場の技師といった仕事ではすぐれた成果を出しましたが、経済的に実家に頼っていることが多かったのも事実です。これでは、自立した社会人とは言えないではないか、と訝しく感じる方もいらっしゃると思います。

私も、賢治が、世間が考えるような「模範的な」職業人だったとは思いません。むしろ、仕事や働くことに深く悩み、さまざまな試行錯誤をしたからこそ、彼は、自分の環境に違和感を持たずに適応し順風満帆に成功を収めた人たちが見過ごした問題を考え抜くことができたのです。

つまり、果敢に挑戦を行い、常識を超えたスケールで「何のために、どんなふうに働くのか」という問いに向き合ったところに、彼の魅力があり、その作品と生涯に注目する意義があると思うのです。

それと同時に、宮沢賢治の大きな魅力を形作っているのは、彼の感受性と想像力だと思います。

まぶしい山の雪の反射です。わたくしがはたらきながら、また重いものをはこびながら、手で水をすくうことも考へることのできないときは、そこから白びかりが氷のやうにわたくしの咽喉に寄せてきて、こくっとわたくしの咽喉を鳴らし、すっかりなおしてしまうのです。それにいまならぼくたちの膝はまるで上等のばねのやうです。

これは、肥溜めから肥料を桶に汲んで麦畑まで運ぶという農業実習を描いた「イーハトーボ農学校の春」の一節です。重い荷物を運ぶという重労働ですが、光のなかに、風のなかに植物のなかに、あらゆるところに訪れた春に共鳴して、語り手の心と体は、多幸感と活力に満たされています。このような描写は、農学校の教師だった賢治の実体験にもとづいていると考えられます。

賢治のような感受性で暮らしてみたら、私たちの現実はどんなふうに変わるのでしょうか?

この連載の目的は、宮沢賢治の作品や思想の紹介ではありません。私にとって、そして、今という時代にとって重要なことは、賢治の遺したものを批判的に継承し、継承的に発展させることです。そのためには、現代の学問の成果を参照したり、現代の状況に合わせた調整を行ったりする必要があると思います。

例えば、「みんなの幸」という考え方は、今「誰一人取り残さない」という原則を掲げる国際目標「持続可能な開発目標(SDGs)」と類似しています。それでは、賢治の思想は「SDGs」の先駆という位置づけになるのでしょうか、それとも、「SDGs」の何らかの問題点を照らし出すものになるのでしょうか。また、賢治のいう「さいわい」は、今日使われることが増えてきた「ウェルビーイング」(「身体的・精神的・社会的に良好な状態にあること」)という概念と、どのくらい重なるものなのでしょうか。そういったことも考えていきたいと思います。

賢治の青春時代

これから賢治を批判的に継承するための準備作業として、賢治の生涯を簡単に振り返っておきましょう。

宮沢賢治は、1896年8月27日、父政次郎、母イチの長男として岩手県稗貫郡里川口村川口町(現・花巻市豊沢町)に生まれました。当時の家業は質・古着商。弟妹は、トシ、シゲ、清六、クニ。浄土真宗を篤く信仰する家庭環境で育ち、幼い時より経文に親しみました。賢治は、長男として家業を継ぐことを期待されて育ちますが、後にそれを拒むことになります。

1903年、町立花巻川口尋常高等小学校に入学。10歳頃から、鉱物、植物、昆虫採集、標本作りに熱中するようになります。特に鉱物を愛し、「石っこ賢さん」というあだ名で呼ばれました。鉱物への関心は、彼の作家としての仕事にも、農学校の教師や砕石工場の技師としての仕事にもつながっています。

1909年、12歳で花城尋常高等小学校を成績優等で卒業。花巻を離れて、県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学します。その頃も鉱物採集に熱中しています。1914年、17歳で盛岡中学校を卒業。進学が許されず、家業を手伝うことになります。店番をしたり養蚕の桑つみをしたりしましたが、家業への嫌悪とともに進学の念が強くノイローゼ状態となります。両親とも商売は性に合わないと考え、進学させる決心をしました。受験の準備にとりかかりはじめた頃、父が法友高橋勘太郎から贈られた島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」を読み、感銘を受けます。ここで出会った「法華経」が、賢治の生涯や人生観に決定的な影響を及ぼすことになります。

翌年、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)農学科第二部に首席で入学します。休みの日は登山、鉱物標本採集に明け暮れる生活を送ります。何度も特待生に選ばれ、授業料免除となるなど、優秀な成績を収めました。賢治は、農芸化学を専攻し、関豊太郎教授の下でたびたび土性地質調査見学に参加しています。

1916年4月、保阪嘉内が入学、ルームメイトとなる。とりわけ、トルストイを読み百姓の仕事の崇高さを知って入学したと語る嘉内との交流は、賢治の生涯や仕事観に重要な影響を与えます(嘉内は後に故郷の山梨県に戻り、農業に従事するようになります)。5月には、自治寮懇親会で嘉内作の戯曲「人間のもだえ」を上演しました(嘉内が「全能の神アグニ」、賢治が「全智の神ダークネス」を演じました)。1917年7月には、保阪嘉内、小菅健吉、河本義行と文芸同人誌『アザリア』を創刊。賢治は主に短歌を寄稿していました。しかし、1918年2月には、『アザリア』で発表した文章が問題視され、嘉内は退学処分となります。それに大変同情した賢治は、自分も学校をやめるようなことを言い出して、父を驚かせました。

同じ月、得業(卒業)論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」を提出し、3月には盛岡高等農林学校卒業。4月より研究生(今でいう大学院生に相当)となります。この頃から、童話の制作を行っており、家族に読んで聞かせています。

 東京への「家出」

1918年12月には東京の日本女子大学に通っていた妹トシの入院という報せを受け、母と上京し、翌年19年2月まで滞在。この期間に、東京で人造宝石の製造販売の事業を計画していますが、父の反対にあっています。現代風に言えば、自分の専門を活かしたベンチャービジネスを構想していたのです。

その翌年の1920年5月には、23歳で盛岡高等農林学校研修生を修了。関教授から助教授に推薦されますが、父子ともに実業へ進む考えがあったので辞退しています。

11月には田中智学が組織した法華経系在家仏教団体である国柱会の信行部に入会し、父にも改宗をせまります。1921年1月には、無断で家を出て上京。国柱会本部で田中の高弟、高知尾たかちお智耀ちように会い、童話の執筆をすすめられています。本郷の小さな出版社である文信社で謄写版印刷の原紙を書くアルバイトをしながら、街頭布教や奉仕活動を行い、多数の童話を執筆しました

当時の賢治を知る鈴木東民(後の釜石市長)の証言によると、賢治は自分の書いた童話の原稿について「もしもこれが出版されたら、いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことには自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じている」と語ったといいます。賢治は農学校の助教授という安定した道を選ぶことなく、東京で夢を思い描いていたのです。


国柱会館(1968年1月まで上野桜木町1番地に所在)

疲れ知らずの教師時代

1921年の1月に東京で新生活を始めた賢治でしたが、同年の8月にはトシの病気の報を受け、故郷の花巻に戻り、12月には稗貫郡立稗貫農学校(後の県立花巻農学校)の教諭に就任しています。初任給は80円で、依願退職した1926年には130円にまで上がっています。昭和初期の大学出のサラリーマンの初任給は60円から70円でした。尋常高等小学校卒業が多数派で、農業が主産業の岩手では、かなりの高給取りだったと言えるでしょう。
「生徒諸君に寄せる」として知られている断章では、農学校の教諭として過ごした約4年間(1921年12月~1926年3月)が以下のように回想されています。

この四ヶ年が
わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
鳥のやうに教室でうたってくらした
誓って云ふが
わたくしはこの仕事で
疲れをおぼえたことはない

この時期には、賢治の「教育者」としての才覚が十二分に発揮されていたと言えるでしょう。教え子からは、熱心に教え、生徒たちと一緒に働くいい先生だったと評されています。生徒たちと演劇を上演したり、化石の発掘を行ったりと、その教育は「体験学習」とも言えるものでした。

この4年間の前半に書かれたのが『春と修羅』(第一集)です。この時期の最大の出来事は、1922年11月27日に妹トシが亡くなったことです。この出来事をどう受け止めるのか、その苦悩が、賢治の「ほんとうのさいわい」の探究を突き動かす一つの原動力となりました。後半に書かれたのが『春と修羅 第二集』です。この時期に『春と修羅』や『注文の多い料理店』を刊行しましたが、辻潤など一部の先鋭的な文化人に評価されたことを除き、文壇や世間に認められることはありませんでした。この頃、花巻温泉の街路樹、花巻病院などの花壇を設計造園しています。

 教師から農民へ

1926年3月、29歳のとき、花巻農学校を依願退職し、花巻町下根子桜で独居生活を開始します。農学校時代の親友であり、ともに農村救済の夢を語り合った保阪嘉内に宛てられた1925年6月25日付けの手紙では、教師をやめて農民になるにあたっての心境が綴られています。

来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働らきます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます

透明で冷たく純粋なものを求める態度から、濁っていて生き生きとした豊かなものを求める態度へ。賢治の美意識や世界観の転換が語られています。「本当の百姓」という表現は、教師として安定した月給を得て農業を教える立場に対して、リスクを取って自ら農業を営む立場を表しています。ここには「ほんとうのさいわい」を求める態度と共通する、よりリアルなもの、より真実なものへと向かう姿勢があらわれています。


羅須地人協会


羅須地人協会の入り口に掲げられた賢治の言葉

独居生活を行う賢治は、自ら農業を行うかたわら、私塾「羅須地人協会」を設立し、定期的に集会を行っています。農学校と(農学校在職時に賢治が「農民芸術」などの講義を行っていた)国民高等学校の卒業生と、農業人に熱心な老人や若者たちが集まったといいます。医者が処方箋を書くように田畑の肥料を計算する肥料設計、土壌学や農民芸術に関する講義、レコードコンサート、器楽合奏、不用品の交換会……。賢治の活動は、農村の生活をより楽にし、その文化をより豊かにすることを目指したものでした。賢治は骨身を惜しまずに無償で行いましたが、自らはこっそり利息のつく金を借りたり、持っているものを売ったりしていました。この時期に書かれたものが『春と修羅 第三集』にまとめられています。このような生活は1928年の12月、無理がたたり急性肺炎で倒れたことにより、2年足らずで終わりを告げます。

企業で働く賢治

翌年からは病臥びょうがが続きますが、病床に東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪し、交際が始まりました。鈴木東蔵は、小農の出身で小学校を卒業した後、用務員として岩手県東磐井郡(現・一関市東山町)の長坂村役場に就職。役場で働くかたわら、農村の貧しさを解決するための方法を探り、『農村救済の理論及び実際』、『理想郷の創造』などの著書を発表しました。村役場を退職した後、雑誌記者、砥石の製造販売などを経て、岩手県東磐井郡の地下資源を、主に肥料として活用する東北砕石工場を創業しました。現代の感覚で言えば、理想を掲げて事業を行う「社会起業家」とも言える人物です。

病状が回復した1931の春には、賢治は、東北砕石工場の技師として、炭酸石灰の宣伝と販売を行うことになります(34歳)。年収は600円、ただし炭酸石灰による現物支給でした。当時、長坂村役場の村長の月給が月35円でしたので、それなりの好待遇といえるでしょう。現物支給という条件はイレギュラーですが、実家の宮澤商会で売れば現金化することができることが前提だったと考えられます(宮澤家の家業は弟の清六が継ぎ、質・古着商から建築材料の卸・小売に業態転換を行っていました)。

残念ながらこの仕事を始めた年の9月、石灰宣伝で上京したときに賢治は発熱し、再び自宅で病臥せざるを得なくなってしまいます。賢治が働いたのは半年程度でしたが、彼が行った経営への提言には注目すべきものがありました。また農学校時代の専門性と人脈を駆使した広告政策や営業活動により、販売量を大きく増やすことに貢献しています。
それからは病臥が続き、詩や童話を書いたり、肥料の相談に乗ったりしながら過ごしました。しかし体調の悪化により、1933年9月21日に亡くなりました。享年37歳でした。

 宮沢賢治の遍歴

最後に、宮沢賢治の仕事やそれに類するものを、金銭的報酬の有無を問わず、挙げてみますと、農学の研究、質・古着商の手伝い、人造宝石ベンチャーの構想、謄写印刷の原紙を書くアルバイト、童話や詩の執筆、農学校での教育活動、畑作、肥料設計、私塾の主宰、造園、石灰の宣伝販売など、多岐にわたっています。賢治の独自の仕事観は、さまざまな種類の仕事、さまざまな立場での働き方を経験したからこそ生まれたものだと言えるでしょう。

さらに、賢治の探究に特に大きな影響を及ぼしたキーパーソンを挙げてみますと、父政次郎、妹トシ、保阪嘉内、鈴木東蔵の4名が挙げられると思います。政次郎との対立と自立の追求が賢治の生涯にわたるテーマとなります。トシは、賢治が最初に東京で滞在するきっかけにも、東京から花巻に帰還するきっかけにもなっており、その24歳での若すぎる死をどう受け止めるのかという苦悩が「ほんとうのさいわい」をめぐる探究の原動力となりました。保阪嘉内は、賢治が安定した農学校の教師の職を辞するほどに農民に関心を持つきっかけを作ったと言えるでしょう。そして、鈴木東蔵は、農村救済という理想を掲げて事業を行う経営者で、賢治を新たな挑戦に誘い、教師とも農民とも違う視点を賢治に与えたと言えるでしょう。

次回は、宮沢賢治の生涯や作品を紐解きながら、宮沢賢治が「ほんとうのさいわい」についてどのようにアプローチしたのかを明らかにしていきます。

◆参考文献

『【新】校本宮澤賢治全集』筑摩書房、1995~2009年。
見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』岩波書店、2001年。
宮沢清六『兄のトランク』筑摩書房、1991年。
佐藤龍一『宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死』集英社、2008年。
岡村民夫『イーハトーブ温泉学』みすず書房、2008年。

(つづく)