ある自活言語学者の愉快な日々

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来たれ! 自活志願者

なんで言語学者がドーム作り?

「自活研究者」見習いを名乗っている、伊藤雄馬です。タイとラオスで話されているムラブリ語をフィールドワークしながら研究している、言語学者です。その言語研究の一環で、実家の山で自ら発明したモバイルできる「ドーム」を建てて寝泊まりしたり、農業もどきや狩猟採集のようなことをしながら食べ物を得たり、菌の働きで水を浄水するシステムを作ろうとしたり、モバイル発電機を作ろうとしたりしています。

と、ここまでまくし立てましたが、なんで言語学者がドームを作って山で暮らそうとしたり、自給自足もどきのようなことを目指しているのか、よくわからないかもしれません。言語学者って、そんなことするのか?……ぼくのまわりの言語学者はしていないと思います。けれど、ぼくにとってムラブリ語の研究とドームを作っていることの間には、必然的なつながりがあるんです。地続きなんです。もちろん、それがぼく以外のみなさんにはそう見えないのも、よくわかります。この連載ではその溝を埋めていきたいと思っています。

言語学をぼくなりに真面目にやってたら、持ち物が少なくなっていったり、ドームを作っちゃったり、エネルギーを作りたくなっちゃったり、そういう変化がぼくに訪れました。そんなことをぼくが言っても、たぶん読んでいるみなさんは「意味がわからないな」って思う気がします。あんまり学者っぽくない動き方かもしれません。でもこの連載を読んでいただくことで、「うん、まぁ、それも研究成果と呼べなくはないかもね」くらいになってもらえればいいな、とも願っています。

なので、まずはっきりさせておきたいのは、この連載で書かれていることは、ぼくの言語学の研究の成果です。ぼくが言語学を始めて、ムラブリ語を学んでいなかったら、まず間違いなく、モバイルできるドームを開発しようなどとは思っていないはずです。そのあたりの詳しい変化のプロセスと、それから今ぼくがそれをどのように実践しているのかを、リアルタイムにお伝えしていく場としても考えています。

さらにもうひとつ連載の目標を挙げるなら、自活研究者の友人を増やすことです。いや、別に研究者に限りませんね。自活芸術家なんてのもいいです。自活舞踏家とか、自活エッセイストとか、なんでもいいです。

「自活」ってなんだろう?

今、「自活」という言葉を使いましたが、自分が生きていくのに必要なものを、自分でまかなう術を持つこと──それがぼくの「自活」の定義です。それもいろいろな程度や範囲があってもいいと思います。食べ物は自分で作りますとかね。絵を描く紙を自作するとかもありです。自活は0か100かではなくて、その人が「自活」の方向を向いていて、何かしらの行動をしていれば、立派な自活者だと思います。ぼくの実践の一つとして、そんな人に会いに行ったりすることも想定しています。

どうしてぼくが自活にこだわるかというと、まずムラブリの影響があります。ムラブリは狩猟採集民で、森の中を遊動して暮らしています。自分で寝床を作り、食べ物を探して調理し、火をおこして焚き火をします。ムラブリは森の中でひとりでも生活することができるのです。ムラブリと15年以上ともに過ごす中で、ぼくは少しずつ彼らに影響されていきました。そのせいか、これまでの日本での生活に違和感を覚えるようにもなっていきました。ムラブリといると楽なのに、日本に帰るとどうしてこんなに息苦しいのか。タイの山奥にいるよりはずっと便利で快適な暮らしを日本ではしているはずなのに、どうしてか、ぼくはぼくの生き方に納得できないでいました。それを、ムラブリの姿を見ることで感じることが増えていったのだと思います。


ムラブリの「家」。竹と葉だけで作る風除けのようなもの。

 

変化はずいぶん前からあって、大学院生の頃、10年以上前にまでさかのぼれます。まず、持ち物が減っていきました。その頃はちょうど断捨離ブームもあったので、家の物を整理しました。「こんまりメソッド」というのが流行っていたので、それを実践しました。そのメソッドでは、まず衣類から始めます。衣類を部屋の1カ所に山積みにして、それをひとつひとつ手に持ちながらときめくかどうかを判断します。ときめいたものは残し、ときめかなかったものは感謝して手放す、というやり方です。

服を部屋に集めてみると、山盛りになりました。それを手に取りながら、ときめくかどうか、それに加えて、ぼくは別の基準も自分で設けました。「ムラブリの村にも着ていけるか」。日本にいるときの格好のままでは、乾季には砂埃が舞い、雨季は土砂降りでぬかるむような場所には行けません。ムラブリの村に行くときには「ムラブリセット」を用意していました。服は大学時代、陸上部で来ていたウィンドブレーカやジャージなど。それらは日本で着ることはありません。日本では、白いシャツを着て、スキニーのジーパン、革靴を履いていました。

こんまりメソッド+ムラブリでは、日本で着ていた服はことごとく弾かれていきました。日本で着るには素敵なシャツやジーパンも、ムラブリの村に着ていくのが難しいなと感じると、少し自分にとっての魅力が下がるのが感じられたのです。それからは、日本でもムラブリでも、どちらでも着られるような服を選んでいきました。リュックや財布なども、海外に行く用のものを用意していましたが、それも区別せずに、日本でもムラブリでも同じものを使うようになりました。

おかげで服装も変化していき、最近ではふんどしを履いているし、服も年中変わり映えしません。今持っている服を数えると、ふんどしが3つ、半袖のTシャツが1枚、長袖のインナーが1枚、チノパンが1枚。以上です。アウターはお世話になっている家の人からパーカーを借りています。寝るときは、普段から持ち歩いている布を腰に巻いて寝ます。今は5月なので、そろそろ衣替えをしようかな、という気分です。一度スタイルというか、色味を決めたら、1年はそのスタイルで過ごすことにしています。もちろん、海外に行くときも同じ服装です。

靴も雪駄を1組持っていて、それを毎日履いています。大体3カ月から半年くらいで買い替えます。こまめに洗いつつ、干しながら履いているので、どうしてもそのくらいで買い替えが必要になります。雪駄も自分で作れたらいいな、と思っています。一度、草履を編んで履いていたことがありましたが、下手なので1週間も持たずにばらけてしまいました。この連載中に再チャレンジするかもしれません。

年中どこでも雪駄なので、靴下を履いていません。もともと靴下が苦手で、小さい頃は履かないことも多かったですから、それほど違和感がありませんが、どこへ行っても驚かれます。特に真冬に雪駄を履いていると、必ず「寒くないの」と聞かれます。慣れれば平気です。いや、本当に。皆さんやってみたらいいのにな、と思います。

文房具もそうです。ぼくは物をなくしやすいのですが、特にペンをなくしやすいです。何本持っていても、すぐになくしてしまいます。大学生まではペンを使い切ったことがないほどです。「それもこれも、ノートとペンを別々に管理しているからだ」、そう考えて、無印良品のリング型ノートにゲルインクのリフィルタイプのボールペンがちょうど入ることを発見したぼくは、それからというもの、リングノートにペンは1本、リフィルを常に持ち運ぶというやり方で、日本でもムラブリでも過ごすようになりました。それからというもの、ペンをなくすことが激減したので、自分ではすごく満足しています。


島根の山に建てたドーム。この中で寝泊まりしたりもしてます。

 


長崎でのドームを作るワークショップ。小学生でも建てられるものを目指してます。

快適さを疑う

自分の生活を自分でまかなえるようになる方法は人それぞれですし、度合いも異なると思います。これまで他人にやってもらっていたことを自分でできるようになる過程は、少し面倒です。今まで自分でやらなかったことをやるわけですから、大変です。けれど、それは自分以外の誰かがこれまでもやってくれていたわけです。ぼくの代わりに、ぼくの住む家を建てた人がいて、お米を育てた人がいて、電気を作って送る人がいたわけです。だからこそ、これまでのぼくは快適に過ごしてこられたのだと思います。けれど、それは与えられた快適さです。いや、与えられたことにさえ気づけていない快適さでした。そもそも、それが快適だと感じさせられていた、という側面も大いにありえます。

ぼくは長年、歯磨き粉を使って歯を磨いてきましたが、最近ではほとんど使っていません。水だけだったり、塩を歯磨き粉として使ったりします。それで十分スッキリします。たまにホテルに泊まったときに歯磨き粉を使ってみますが、違和感の大きさに驚きます。歯磨きの後も口の中に違和感があって、気持ちの悪い感じが強いです。歯磨きの後にオレンジジュースを飲むと、味がわからないどころか、美味しく感じられなくなる、なんて小学校の時に流行りましたが、よく考えてみると、歯磨きをした後に口に入れたものの味が感じにくくなるものを口の中に入れていた、という時点で、なんだか変なことをしていたな、とも思うわけです。

もっと極端なことをいうと、毎日布団やベッドに寝ていることも、本当に快適なのか? と疑問に思ったりしています。ムラブリの村では、竹でできた床に寝袋と毛布で寝ていました。床に寝ているようなもんです。でも、寝心地はというと、慣れれば特に違和感はありません。むしろ、日本にいるときよりもすっきりと朝早く目が覚めていたりもします。そんな自分を思い返すと、もしかしたら布団やベッドは過保護かもしれない、とも感じてくるわけです。

自分がやってこなかった、自分が生きるために必要な仕事は、やってみると、面倒などころか思いのほか楽しいことにも気づきます。ぼくは散歩をよくしますが、最近は散歩中に食べられる野草探しもします。今の季節ですと、ヨモギや七草を筆頭に、イタドリ、カキドオシ、ハマダイコン、ノビル、ヤブニンジンなどなど、スーパーで野菜を買わなくてもいいんじゃないか、と思えるほどです。そんな風に食べ物を探しながらの散歩は、普通に歩くのとは一味違うんです。ただぶらぶらしているのではない高揚感があります。ムラブリは森の中に行くと元気になりますが、きっと狩猟採集のモードに入るからなんでしょう。散歩に採集を取り入れる実践でムラブリの理解が深まりましたし、なにより、ぼくも採集モードに切り替わるんだ、という発見は嬉しいものでした。自分が思っている以上に、ぼくはぼくの手で生きてみたかった、ということを実感したからです。こんな体験も、ぼくを自活に向かわせています。

テクノロジーを組み直してみたい

ぼくがこれまで身につけてきた社会性や習慣が無駄だったとは思いませんが、それは自分で作り上げてきたというよりは、誰かがよい、という方法を真似てきたものでした。これからのぼくは、その身につけてきたものを吟味しながら、自分の手でもう一度、作り直してみようと考えています。

こういう話をするとたまに勘違いされるのですが、テクノロジーを否定して、縄文時代のような生活をしたいわけではありません。縄文時代の生活はもちろんとても素晴らしいと思います。でも、それを再現したいわけではありません。現代社会批判やノスタルジーはぼくの動機ではありません。縄文人が現代に生まれたら、スマホを持つんじゃないでしょうか。ムラブリの若者もスマホを持ってFacebookをしていますしね。ぼくの興味は、良識ある縄文人が現代に蘇ったとしたら、テクノロジーとどう付き合うか、ということです。そこにぼくの興味関心があります。

テクノロジーは素晴らしいものだと思います。身近なもの中に人類の試行錯誤が凝縮されているのを知ると、感動してしまいます。ぼくは中学生の頃、アナログの置き時計をバラバラにして仕組みを調べてみたことがありました。短針と長針がどのように規則正しく動いているか確かめるためです。動いている時計を見ると、とても単純なことのように思えましたが、分解して中を覗くと、とても複雑な機構のあることに驚かされました。秒針、分針、時針の間には、その動きをひとつの動力で同期させる仕組みがありました。そこまでは分かったのですが、動力を生み出している回路ユニットは分解しても仕組みを理解することができませんでした。

ぼくの身の回りはそんなもので溢れかえっています。それはとてつもなくすごいことです。ぼくの日常は人類の叡智によって支えられています。まだまだ気づいていないこともたくさんあるでしょう。ぼくはそれを知るだけではなくて、自分でできるようになってみたいんです。他の誰かがもう達成したことをわざわざやり直すのは「車輪の再発明」といって無駄なことだと揶揄されますが、ぼくの作った車輪はかつて発明された車輪と同じではない。その意味で、再発明なんてないんですよね。ぼくの生き方は、ぼくが創造するしかないんです。人類がこれまで積み上げてきた技術があれば、ぼくの満足できる生活はもう十分に達成できるんじゃないか、という気がしているんです。あとは、テクノロジーの組み合わせと、「このくらいで幸せな毎日だよな〜」という、足るを知るという節度の問題だと思っています。

ここまで書いて、きっとぼくははたから見れば、好きなこと、やりたいことをやっているように見えると思います。でも、ぼく自身は、ぼくのやりたいことを分かっているとは、まだ思えません。ぼくはまだ、生きるための労働をしています。ここでいう労働とは、生活するためのお金を稼いでいるってことです。生きるために働く必要がなくなったときに、ぼくはいったい何に興味を持って、何をするんだろう? という興味があります。知りたくないですか? 何のために生まれてきたんだろ~みたいなものです。それを達成するためには、社会制度とか、世界情勢とか、外向きなことを言い出せばキリがないですが、とりあえず、自分が生きるのに必要なものを自分でまかなえれば、見えてくるんじゃなかろうか? と思っています。

あと、ぼくは移動しながらそれを達成したいという野望もあります。タイにも行きたいですし、ラオスにも行きたいですし、お金がなくて断念したパプアニューギニアにも行きたい。もっというと、宇宙中いろいろな場所に行ってみたいので、それができるようになれたらいいな、というテクノロジー及びスキルの習得を目指しています。飛躍してますかね。でも、本気です。

その試行錯誤と実践はこれからおいおい紹介していくことになるでしょう。

(つづく)