ある自活言語学者の愉快な日々

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素晴らしきかな、野草!

ドームの話が書けない

連載の流れとして次はドームの話を書こうと試みたのですが、書けませんでした。なんででしょうね。余談になるかもしれませんが、まずそのことについて少し考えてみたいと思います。

ドームの作り方について説明するのが順当だろうな、と思って書き始めてはみたのですが、どうも筆が乗らないんですね。いや、筆が乗る乗らないみたいな、こなれた言い方をするのが恥ずかしい感じです。ただ、なんとなく、楽しくない。その程度の形容で済む感覚です。そんなこと気にせずに、仕事として書こうよ、と思う自分もいるのですが、うーん、仕事。仕事だから、楽しくなくて当然、これぐらいは苦労するもんだ、という感性が、ぼくにはあんまりないようです。それでもかつては少しぐらいあった気がしますが、最近はもうほとんどない。だから、気に入らない仕事に出くわすと、すぐにぺろっと舌を出して逃げてしまいます。よくない。けど、仕方ない部分もある。そうしないと、体調が悪くなるので。

ドームのことが書けないのは困りましたが、書けないのだから仕方ない。書きたいことがないわけではないから、そのことを書こう。例えば最近あった話とか、近頃考えていることだとか。そう気持ちが切り替わったら、こうして書けているわけです。ふむふむ。おそらく、ドームについて書けなかったのは、こういうことではないでしょうか。

ドームの作り方の発明って、2022年1月のことなんですね。もう1年半くらい前のことです。だから、その頃のことを思い出しながら書くことになる。そのことを伝えたくないわけではないんです。でも、それよりも、今のぼく、2023年6月のぼくの身に起きていることを書きたい。そういうことだと思います。

人間の言語の特徴として、よく「超越性」が挙げられます。どういうことかというと、今、目の前で起きていないことを伝えられる。それが他の動物と比べて顕著に異なると言います。でも、本当にそうなんですかね、と今回ドームのことが書けなかったぼくは、言い訳がましく思うわけです。つまり、過去のことを書いているようで、過去を見ている現在を書いているんじゃないのか、ということです。

過去は変えられないとはよく言いますが、過去、変わりますよ。いや、変えてますよ、というのがより正確だと思います。親から言われてうっとうしかった小言も、大人になってみると自分を想っての言葉だったと、受け止め方が変わったりしますが、あれも過去が変わったのではなくて、自分が変わったからです。逆もあって、あんなに感謝していた出来事が、実は裏に別の意図があったことを後から知って、がっくりするなんてこともあります。

起きたことは変わらないけれど、その解釈はその時の状況によって変わる。だとするならば、こうやって書いていることは昔のことだったとしても、現在から見ている視座によって影響されているのだから、現在のことを書いていってもいいのではないでしょうか。

ドームのことを書けないのは、最近のぼくがドームについてあんまり興味がないからだと思います。興味ないんかーい、と思われると困るので慌てて付け加えますが、ドームには興味がありますが、それ以外の楽しいことや思索があって、優先順位が下がってるぞってことです。いつかぐるりと回ってドームの話も出てくるので、気長に待っててくださいね。連載中に戻ってくるかどうかは、もうぼくにも分かりません。

今思いましたが、これはムラブリみたいですね。ムラブリは「もう終わったこと」と「これからすぐ後に起こること」を同じ形で表現します。「今」か「それ以外」か、みたいな感性ですね。ぼくが「今」のこととしてしか昔の話を書けないのは、ムラブリの影響かもしれません。「ムラブリって明日の約束もできなくて、付き合うの大変なんですよ〜」とか、他人事みたいに言えなくなってきましたね。お付き合いいただく方々におかれましては、あらかじめご海容のほどよろしくお願いいたします次第です、はい。

「野草の女王」との出会い

3月30日に肉態表現家の戸松美貴博(とまつたかひろ)さんと新しい研究会、その名も未言語肉態研究会(Pre-Language Physical-connexion Laboratory = PPL)を新しく始めました。「肉態」とは、舞踏のようで、舞踏でない、戸松美さん独自の表現です。その戸松美さんと、僕の最近の研究課題である「踊りと言語」の関係について体験型の公開研究会をやっています。その内容については、また別の場で書いたりする予定ですので、そちらを読んでいただきたいと思います。ここで書きたいのは、野草についてです。え、なんで?

「ムラブリ」やゆる言語学ラジオで野草を食べると話しました。島根や富山にいる時に山菜や野草を採って食べる実験を自分でしていますが、最近は都内にいることも多く、都内では野草を採る経験がないので、あまり実践できていませんでした。

どうしようかなと考えていた時に、先のPPLの参加者の方が、突然「野草に興味ありますか?」とぼくに尋ねてきたんです。そんなに「野草顔」なんでしょうか?

その参加者のご友人に、なんと「野草の女王」と呼ばれる人がおられるらしく、都内の野草採りを教えてくれるとのこと。「待ってました!」の内容でしたので、ふたつ返事でお会いすることになりました。いやー、本当に運がいいですね。

後日、野草の女王に連れられて多摩川の河川敷に野草を採りに行きました。4月の中ごろでしたが、その時期はハマダイコンと呼ばれるダイコンに似た野草が花を咲かす時期で、うすむらさき色の花が土手中に満開でとても春っぽかったです。ハマダイコンは根も実も花びらも食べられます。花はほんのり甘くて、実はほとんどダイコンの味で美味しいです。その他にカキドオシやクレソン、ノビルなんかを採りました。文字通り山ほど取れます。野草採りのあとは、お外のベンチでランチをしました。もちろん、野草を使ったお料理の数々。気持ちいいし美味しいし、最高でした。


ハマダイコンが満開の多摩川べり


採れたてのカキドオシを乗せた野草ピザトースト

なぜ、野草か?

どうしてぼくが野草を食べるのかについて、少し考えをまとめてみたいと思います。もちろん、お金ないとか、食糧難に備えてとか、あと美味しいからとかもありますが、それ以外にもあるんです。

食糧難について少し付け足すと、ぼくはほとんど気にしていません。たくさんの方が問題視されているので、解決すべきことなんだろうとは思いますが、いまいち実感がないんです。農林水産省の報告書(https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/2010/spe1_01.html)を見ると、世界で毎年13億トンのまだ食べられる食料が捨てられているらしく、それは生産量全体の3分の1にあたるそうです。このデータを見て、食料危機を心配する気にはならないと思うんですけど。よく分かりません。教えてください。

規模はずっと小さくなりますが、大学生の頃バイトしていた居酒屋でも、毎日毎日大量の食べ物を捨てていました。たまにあまり手をつけてない食べ残しはつまみ食いしてましたけど、それだけで賄い飯がいらないくらいお腹いっぱいになって、それの何十倍もの料理がまだ食べられる状態で破棄される。それを毎日目の当たりにしていると、感覚がマヒしていって、だんだんと気にならなくなっていきました。でも、やっぱり悲しかったと思います。人間賢いんだったら、もっとなんとかならんもんかなあ、と思わずにはいられません。

こういう規模の大きい問題を目の前にすると、そのスケールの大きさに呆然としてしまって、具体的に何をしていいかわからなくなります。ぼくはよくそんな感覚になって何もできないや、とあきらめてしまいがちなのですが、それでもとりあえず、やる気のある時は、自分ごととして何かをして、気持ちを慰めています。野草を食べることも、その一つではあります。ただ、野草を選んでいるのはそれだけが理由ではなくて、実は物流について少し思うところがあるからなんです。

動かない野菜と動く人

スーパーで野菜を買う時、産地が書いてあります。ほとんどは遠くから来てますよね。海外からのものもあります。手に取りながらどんな旅でしたか? と尋ねたくなったりしますが、そもそもどうしてそんなに遠くのものが、こんなに手軽に手に入るのでしょうか。わざわざそんなに遠くから持ってくる必要あるの? という疑問です。

「地産地消」という言葉がぼくの子ども時代に言われ始めました。「地産地消の方が、そりゃ合理的だろ、なんで今までしてなかったの」と思った記憶があります。地元の野菜などを取り扱うお店もいまでは普通になりました。けど、疑問もあります。これはぼくの体感なので間違っていたらごめんなさいなのですが、地元の野菜を扱うスーパーの方がなぜか値段が高かったりしませんか? 輸送費かかってないんだから安くならんのか、と素人は思うのですが、どんなからくりがそこにあるんでしょう。社会は不思議で満ちていますね。

ぼくが一時期やっていた車中泊時代、深夜に高速道路を走ることがよくありました。深夜料金だと3割引きだし、高速のパーキングは車中泊に都合がいい。トイレがあるし、食事もできるし、wi-fiもある。シャワーや温泉のあるパーキングもあります。楽しいですよ。

深夜の高速パーキングは、アイドリングするトラックの音で轟いています。トラックの運転手さんが休んでおられるんですね。少し大きめなパーキングなら、隙間なくトラックがずらっと並びます。駐車場に収まらないと、別のスペースに停めているトラックもあるくらいです。これだけのトラックと運転手さんが物流を支えていて、深夜にも働いてくださっている。ありがたくなると同時に、もっと効率的にできないものかな、とも思います。

さらに物流について考えると、どうして動かない物、例えば野菜をわざわざ動かすんだろうと首をかしげるようになりました。野菜は動かないですね。そして人は動く。だったら、野菜を人のいるところに動かすのではなくて、人が野菜のある所に動くのが自然ではないですか? 「野菜 to 人」より、「人 to 野菜」が合理的です。

そうなると、畑からスーパーの移動をなくせばいいので、スーパーのある場所にバカデカ農場があれば、野菜については解決するじゃん、と思うんです。アホなこと言ってますが、素朴に合理的に考えると、こういう結論になるんです。

だからぼくはドームで水耕栽培をして、スーパー代わりにすればいいじゃんと構想していたんですね。わ、ドームの話できた! そうです、ドームは住居用だけでなくて、農業利用も考えています。ビニールハウスって高いし、購入するのに条件があったり、ハードルが高いんですよ。けど、ドームなら自分で建てられるし、移動もできるし、めちゃくちゃ安くすみます。

そこで水耕栽培の実験も一時期していたのですが、遊動的な生活をするぼくには合わず、断念していました。「農業用ドームと一緒に移動してやろう」という野望も持っていますが、あんまり現実的ではないかもしれません。

畑にしろ「野菜ドーム」にしろ、管理が必要なのがネックです。手間がかかる。ぼくの言わんとしたいことが見えてきたでしょうか。そうです。管理のいらない野菜 is 野草なんです。勝手に生えて、勝手に育って、勝手に増えてくれます。手間要らず。彼らのお住まいを頭で覚えておけばいいのです。物流も管理コストもすべて解決! 素晴らしきかな野草!

とはいえスーパーの野菜もよく食べるぼくです。怒らないでください。スーパーの野菜、美味しいですよね! 野草を食べていると、いかにスーパーの野菜が素晴らしいかが分かります。種類にもよりますが、野草の多くはスーパーの野菜に比べて筋があったり、固かったりして、食べるのに工夫がいるものも多い。というよりもスーパーの野菜がとても食べやすく育っているのです。簡単にかみ切れるし、調理も楽。初めはどの野菜も野草からスタートしたとするならば、スーパーの野菜には人類の知恵と工夫が凝縮されているのを感じられます。

ただ、スーパーに売られているような野菜の方が野草より良い、という感性も、落ち着いて振り返ると、慣れや好みの範囲内だという気もします。最近のフルーツは昔に比べてどれも甘くてすごいですが、「甘い=良い」というものでもないですよね。酸っぱいイチゴも美味しいです。かみ切れる優しいキャベツをスープでいただくのもいいですし、筋張った歯応えのあるキャベツを塩だけでガシガシと齧りたい時もあります。野草を食べることで、自分の食の好みがニュートラルになるというか、好きだと思わされていた可能性について、気づくことができます。


水耕栽培の実験、水や菌類の実験でもありました、双葉がかわいい

(つづく)