ある自活言語学者の愉快な日々

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わが身ひとつで生きるんだ

大学教員を辞めたわけ

2020年の3月で大学教員を辞めました。プロ奢ラレヤーの『嫌なこと、全部やめても生きられる』(扶桑社、2019年)を読んだからです。教員として英語を教えるのはとても楽しく、また充実していたのですが、事務仕事が苦手で、毎日憂鬱でした。「社会に出るのは、こういうものなのかな」と納得しかけましたが、プロ著ラレヤ一の透徹した考えに触れて、特に次の職も食いぶちも考えずに、「えいやー」で辞めました。「ゆる言語学ラジオ」(https://yurugengo.com/)の堀元見さんからは、100点満点中の「4点」と言われました。 たしかに何も考えてなかったのでその点数でも仕方ないんですね。ただ、次どうするかを考えてたら辞めれなかっただろうと思うので、「4点」な計画なのは、まあ仕方ないです。

研究職を目指したのは、そもそも就職というものに馴染めなかったからです。会社で働くということが、よくわかりませんでした。どうして毎朝決まった時間にわざわざ家から移動して集まっているのに、バラバラに仕事をするんですか? お給料ってどうやって金額が決まってるんですか? 特に生きるために必須ではない学問をしたりする学者が高給取りになる理屈が、よく分かりません。農家さんや、道路工事する業者さんや、大工さんなど、生活に必要な部分を担われているそういう方々のお給料の方が高くなりそうなもんですが、ぼくの感性がおかしいんでしょうか。いや、皮肉とかではなくて、本当に分からないんです。ただのぼくの勉強不足なんでしょうけど、自分なりに勉強しても納得がいく答えは得られていません。 ほんとに、誰か教えて欲しいです。マジです、マジ。

このような感性を育んだのは、おそらくムラブリを研究しているからです。ぼくは彼らと15年くらいの付き合いがあり、ぼくがムラブリ語を研究していることは理解してくれています。けれど、ぼくがどうやってお金を稼いでいるのかは、よく分かっていないみたいです。村にいてパソコンを開いていると、遊んでいると思われている節があります。村の中にいて、ムラブリの皆がせっせと働いているのを横目にパソコンをパチパチしている自分は、傍目から見ると遊んでいるようにしか見えないのは、よく分かります。だから、彼らはなぜぼくがお金を持っているのか分からない。

ムラブリの女性は伝統的な編みバッグ(ニョックと言います)を作って、観光客に売ることがあります。すべて手作業で作られており、素材も天然のものだけでとても素敵なのですが、そもそも観光客が少ないので買い手がいません。必然、定期的に訪れるぼくなどが買い上げることになるのですが、ぼくが大量の(時に5、6個同時に買うこともあります)ニョックを買っていると、「お金あるの?」とムラブリに心配されることもあります。確かに、村に来て、パソコン開いたり、昼まで寝てたり、起きてすぐビール飲んでる若僧が稼いでいるようには見えないでしょう。まあ、そんな奴は日本にいてもそう見えるでしょうが。ともかく、ムラブリに心配をかけるわけにはいかないので、そんな時は自分が研究者で、それが仕事だ、と説明するのですが、研究でお金を稼ぐ、という発想がないので通じにくい。簡単に言い換えるようになっていく。そうこうしてたどり着いた説明が、「村のデータを日本に送って、日本政府からお金をもらっている」という説明です。字面だけ見ると完全にスパイですね。けれど、ムラブリはこれで納得(?)してくれています。

ムラブリがお金を稼ぐ手段は、森で取ってきたものを売るか、畑を手伝う貸金労働です。お金を稼ぐ手段として、とても真っ当に感じます。何度か森へ一緒に行って、売れそうなものを一緒に探したこともありました。ある時は、竹の一種であるトックを切り取って売りました。トックは肉厚で細工がしやすく、パイプなどの加工品に使われるそうです。具体的なモノをやり取りするからでしょうか、微々たるお金でも充実感のあったことを覚えています。よく考えると、自分で調達したモノを売るというのは初めてだったかもしれません。生まれてはじめて真っ当に稼いだそのお金は、ラオカオという蒸留酒にすぐ消えました。これもまた、真っ当でふさわしいお金の使い方だという気がします。


ムラブリの女性が作る伝統的な編みバッグ「ニョック」


(https://www.facebook.com/profile.php?id=100063478001423&sk=photosより)

「お金」の反対って何だろう?

こういうことを書いていると、資本主義が嫌いなんですね、などと言われますが、まぁ、確かにそんなに好きではないです。というよりも、あんまり理解できていないんだ、というのが正確なところです。

お金って嫌なものだと思っていました。特に深く考えもせずに。ぼくはずっとあまりお金持ちではなかったし、奨学金もたんまり借りているし、離婚しているから養育費もありますから。お金のことを考えるってことは、ぼくにとっては精神的な負担になっていました。読書メーターの『ムラブリ』の感想として、ある方が「著者はちゃんと養育費を払っているのか」と書かれていて、「このやろー!」と思いました。払っとるわ! ぼくがお金を稼ぐのは、ほとんど養育費を稼ぐためだけと言っても過言ではないです。自分自身、何をしたいかを問い詰めていったら、究極的には自分の興味関心を追求したいということが残りました。残念ですけど、よき夫や、よき父となることよりも、自分の好奇心に沿って生きることが幸福だって、気づいちゃったんです。本当に残念なんですよ。社会的に認められる、家族の幸せにも、あこがれがあります。でも、どこから来るか分からないワクワクすることに、見て見ぬ振りをし続けるには自分には限界がありました。「家庭と仕事の両立」なんていうものは、ぼくの前に吹き荒れる好奇心という名の嵐の前には、小細工にしかならないんです。

そんな何かよく分からない衝動に振り回されてきたぼくも、最近は生きてれば何かしら研究できる環境が整った、と言えるようになりました。生きているのが研究だ、という実感があるからです。生きてりゃいいんです。だから、そんなにお金は必要ない。あれば嬉しいですよ。もちろん。けれど、なくても全然大丈夫。だから、養育費さえ稼げればいいや、という生き方です。その結果、「甲斐性がない」という理由で彼女に振られたりもしましたが、まぁそれもいい勉強です。

これまでの自分は、お金から距離を取っているようで、実はとても気にしていました。背を向けているということは、背を向けている対象の位置を常に気にかけているということ。執着の一形態です。執着しているけれど、深く考えることもしない。そんなぼくに転機が訪れます。

2022年に、みやじまあつし先生という、これまた紹介するのが難しい方に出会いました。みやじま先生は予約の取れない治療家として有名な方で、その独自の哲学と世界観には熱狂的なファンがおり、プロスポーツ選手の相談役も務めるなど、活躍の場も幅広い方。もちろん、しこたま稼いでいます。その先生とひょんなことで縁があり、懇意にさせてもらっているのですが、先生が「お金の反対は何か?」という問いをネットラジオでされているのを聞きました。

ぼくはこれまでそんなこと考えてこなかったですから、驚きました。反対のものを考える。お金について、思考の初歩みたいなこともやっていなかったんです。あれだけお金に悩まされていたのに、お金についてほとんど考えてこなかったのを自覚しました。

「お金の反対は?」と聞かれてみなさんどう考えるでしょうか? きっと、一人一人違うと思います。ぼくの考えを読む前に考えてみてください。

そのラジオを聞いたぼくの考え、というか直感的な応答は「孤独」でした。お金の反対は孤独。それは「お金がないから人望がない」とかではありません。お金の反対はコミュニケーションを取れていない状態だ、と直感しました。どういうことか、その直感を自分で論理づけてみたいと思います。

お金は仕事を人にしてもらうための権利です。ラーメン屋に行けば、自分でラーメンを作る代わりに誰かがラーメンを作ってくれる。電車は、自分が歩く代わりに誰かが運転して目的地まで運んでくれる。お金があれば生きられるのは、お金で誰かが自分の代わりに働いてくれるからです。つまり、10万円持っているということは、10万円分の仕事を外注できるってことです。

この意味でお金をとらえるならば、お金がないと生きていけない、と言っているのは、仕事を外注しないと生きていけない、と言っていることに等しい。でも、本当にそうなのかなって思います。だって、もし仕事を外注しないと潰れてしまう会社があるとすれば、ちょっとその会社危ないかもって思いますよね。でも、「お金がないと生きていけない」って人には、「わかる〜、税金しんどいしね〜」って共感してしまう。ぼくはそこに違和感があるわけです。

この違和感を持ったきっかけがあります。それは車中泊をしていた時期。車であてもなく全国を走っていたのですが、運転してたらお腹が空きます。たいていコンビニかスーパー銭湯のレストランで済ませていたのですが、運転しながら「お腹すいたな〜」と言って、ポケットをまさぐったわけです。お金あったっけって。そのとき愕然としたわけです。おいおい、どうしてぼくは食べ物を探しに行こうとしなかった? って。きっとムラブリなら、お腹すいたなー、じゃ森に行こう、となるわけです。自分で調達しようという選択肢がまずある。その選択肢がぼくにはない。なぜなら、ぼくは自分で食べ物を見つけて採集することができないからです。

動揺しました。思わず運転していた車を路肩に止めて、「うわ〜〜〜〜〜〜」と声を上げました。そのくらい、ぼくにとっては衝撃だったんです。自分、人生で外注しかしてないじゃん!

お金の反対は「孤独」だと感じたのは、おそらくこの外注システムから来ています。お金に頼らずに生きるということは、社会の中で孤独を達成するということです。生きるのに必要なことを、外注せずに、自分でやる。その姿は孤独です。もしかしたらぼくは、世間でよく言われる、「ヒトはひとりでは生きられない」を疑おうとしているのかもしれません。

誰かといたくないわけではないんです。むしろ逆。誰かと一緒にいるために、誰にも頼らない生活を達成したい。ひとりでも生きられるけど、あなたと一緒だと、もっと楽しいね、という関係がいい。そのために、「ひとり」にこだわっているんです。

それに、「ひとり」といっても、木はいるし、風は吹くし、太陽も照っている。社会に外注せずとも、森に、海に、地球に、宇宙の循環に外注した方が、より自由なんじゃないか? こんな問いも「わが身ひとつで生きるんだ」に向かう動機になっています。

植物から直接学ぶ

ムラブリの家を建て替える手伝いをして、お金をもらったこともありました。壁が竹でできていて、それを新しくする作業です。まず、竹を刃物で縦におおまかに裂きます。ムラブリ語には「竹」の総称がなく、種類によって全く別の名前が付きます。家の壁には肉薄のドゥルターンがおすすめです。繊維に沿って、カシュカシュカシュと刃を渡すこと数十回。バラバラにならない程度、1、2センチほどの幅に刻んだら、縦に割ります。すると、スノコのように平らに広がります。あとは節を取り除いてきれいにしたら、出来上がりです。これを壁として利用します。床にもなります。簡単でいいですね。

書いていて思いつきましたが、これをドームの壁面や床に使えばいいんですね。思いつかなかった。こんな感じで思いつきで実践しては、進んでいくのがこの連載になります。

本を読んだり、ネットで調べれば、もちろんもっと賢いやり方はあるでしょう。先人の知恵もたくさんみつかるはずです。けれど、ぼくはそれをあえて真っ先にはやらないように試みています。調べるのは、まず自分でやってみた後です。

いろいろと理由があります。一つは、調べるのが面倒だからです。インターネットで調べればすぐでしょうが、ついついでに関係のないTwitterを見たり、YouTubeを見たりしてしまいます。我慢すればいい、と言われるかもしれませんが……もっともですね。ぼくは自分の一貫性というか、計画性みたいなものを全く信用していないので、そこは差し引いて設計するしかないんです。

他の理由としては、ものにはなるべく頼りたくないというのもあります。例えば、食べられる野草を見分けられるようになりたければ、スマホに野草辞典を入れておけばいい、そういう発想は当然あると思います。けれど、スマホの管理がコストになってしまう。スマホの電池がなくなったら、野草が見分けられなくなるようでは困ります。森の中で電源難民なんて、コントみたいです。あと、ぼくは寝るときにスマホを充電するのを忘れがちで、たいていいつもスマホの電池がありません。充電を忘れないようにする、という対策も先の理由と同じで無駄です。そういう人間なのです。諦めてください。

そして、事前に調べない一番の理由は、自分の身体ひとつでいろいろできるようになりたいからです。どんな植物でも、まだ食べられていない時代に、食べられるか食べられないかを見極めた人がいます。それもなにも特別な計器を用いずに行われたのがほとんどなはず。それらの判断を行った人とぼくは遺伝学的に同じ人間ですから、ぼくにもできるようになる可能性があるはずです。ぼくはその可能性を信じています。

もっというと、植物に教わればいい。つまり、植物と話すことです。言語学者ですからね、植物と話すことも研究対象です。学部生時代に指導教官からイルカの言語を研究した先輩もいた、と言われました。だから、植物の言語を研究することも立派な言語学だとぼくは思います。最近は、植物も特定の周波数を出しているという研究も出ていますから、それを人間が感知できるようになれば、コミュニケーションを取れるようになる道があると思うんですけど、どうでしょう? ぼくは結講、いや、かなり本気で言っています。

ぼくはこういった、人が人以外とコミュニケーションすることについても関心があります。ミツバチと話せる人に会いに行って養蜂にチャレンジしたり、畑と踊ることでコミュニケーションを取ったりもしています。そんな話もしていければな、と思っています。


「ミツバチは俺たちのことよ~分かっとる!」と話す長崎の野元さんの巣箱

そして「ドーム」に行き着いた

第1回連載でドームについて書きましたが、どうしてドームなのかを少しお話ししてみたいと思います。

ドームはバックミンスター・フラーという人が発明したものです。ぼくは彼の影響をかなり受けていますが、フラーのことを知ったのはそんなに昔ではありません。大学教員を辞めたぐらいの頃、2020年くらいだったと思います。Twitterでフラーに関することを呟いていた梶川泰司さんという方がいて、そのTwitter(@synergetics_jp)を熱心に見ていました。

そのあと、武術の先生である光岡英稔先生の紹介で梶川さんに会い、仕事を少しの期間だけお手伝いすることになりました。

バックミンスター・フラーは、ものごとを常に宇宙レベルで見ることを徹底しています。「宇宙船地球号」という言葉を作ったのも彼です。人類は地球という宇宙船の乗組員であり、その視座に立って数々の発明をしました。ドームはそのひとつです。

環境破壊や食糧危機などが叫ばれていますが、フラーにとってそれはすでに解決済みの問題でした。彼は宇宙規模の包括的な計算によって、地球上の資源問題が単なる政治問題であることを看破しました。

人類が人を殺すためのテクノロジー、すなわち「殺戮器」(killingry)に費やしている天文学的な資源やエネルギーを、人を生かすためのテクノロジー、すなわち「生活器」(livingry)へとその流れを方向転換することだけで、人類の存続をおびやかす問題はすべて解決しえる。本当に真っ当な思想だと思います。


バックミンスター・フラー


バックミンスター・フラーのドーム

フラーの話はこれからもちょこちょこ出てきそうなので、ここではこのくらいにするとして、ぼくがどうしてドームを採用したのか、書いてみたいと思います。

書き出せばきりがないのですが、最も大きな理由が、専門性を排除するためです。

家を建てる方法をみなさんは知っていますか? ぼくは、ほとんど知りません。大変なのはわかる。複雑なプロセスが必要だし、そのために大工さんがいるわけです。家を建てるのはとてもお金がかかります。工事期間は4カ月くらいが平均的だそうです。4カ月の間、専門家が働くわけですから、人件費だけでもかなりの金額になります。大工さんは基本的に日当で働いていると聞きました。相場はまちまちでしょうが、日当が一人2万円だとして、4カ月から休みの日を引くと、だいたい90日。90日×2万円で180万円。これが人数分かかるわけです。5人も雇えば900万円です。家を建てるというのは専門家がそれぐらいの時間と労力をかけて建てている、ということが分かります。

ぼくはそこまで計算はしていないまでも、自分で家を建てるのが難しいことは分かっていました。結婚していた時代に自分で家を建てようとしたこともありましたが、働きながら自分で家を建てるのは相当根気がいるようで、諦めました。技術もいるし、達成する根気も必要です。

ただ、ぼくは家を自分で作れるはずだ、という考えを捨てることはありませんでした。ムラブリの存在です。ムラブリが森の中で暮らすために作る寝床は半日で作れます。数人で作ることが多いですが、一人でも作れるみたいです。作りは簡単で、斜面に人の背丈ほどある竹を突き刺す。二股になっている部分がついているもので、そこに「梁」に相当する竹を渡す。その梁にまた竹を斜めに立てかける。その竹にバナナやビンロウジの葉をかけ、地面にも同じものを敷いて、完成。これなら確かに自分でも作れそうです。そこで寝られるかどうかはまた別の問題でしょうけど。

このような風除け的なものでも、ムラブリにとっては家として機能しているのを考えるとき、そもそも家というのは服の延長にあるように感じられてきます。「衣食住」といいますが、この順番を深読みするのであれば、住は最後。後回しにできるものです。そうであるなら、衣を拡張して家を含んでしまえばいい。ではどうするか。

ぼく、寒いのが苦手なんですが、それを伝えたある友人は、大学の先生の言葉を引用してぼくを揶揄しました。

There is no bad weather, only bad clothes.

(悪天候はない、悪い服装があるだけだ)

寒いんだったら、きちんとした服を着ろ、ということです。雪駄なんか履いてないで、暖かい服装をしろ、ということでしょう。ごもっともです。しかし、ぼくはやはり賛成しきれないでいます。なぜかと言えば、ヴィム・ホフ・メソッドというものを知ってしまったからです。ヴィム・ホフ・メソッドとは、ICE MANと呼ばれるヴィム・ホフというオランダ人の考案した健康法で、彼はパンツ一丁で極寒の中フルマラソンを完走したり、氷山の浮かぶ海の中を泳いだりしています。しかも、さも楽しそうに。誰かが実践できていることは、ぼくにもできるという風に考えがちなぼくは、ヴィム・ホフさんのようになれればいいのではないか? と考えてしまいました。だから、いまのぼくならこう言い返します。

There is no bad weather, neither bad clothes, only bad body.

(悪天候はない、悪い服装もない、悪い肉体があるだけだ)

この立場から家をとらえなおすと、なんのために家を持つかが大きく変わってくるはずです。家とは寝るためにあるのでしょうか? いいえ。だって、どこでも寝られるのだから。実際、このメソッドを実践されている方の話では、ホテルに泊まっても、ベッドだと寝づらいので部屋の床で寝るらしいです。ちょっと笑っちゃいますね。

そうなると、家というのは、寝るというより、プライベート空間の確保という意味合いが強くなってきます。ベッドがなくてもいいんです。内部空間と外部空間を隔てられるものがあればいい。

そう考えると、ドームが最適解なんです。

家を1軒建てるために必要な部品の種類ってわかりますか? たぶんめちゃくちゃ多いです。何万とあるのではないでしょうか。

ではドームは? ぼくの開発した方法なら5種類以下です。しかも全部ホームセンターで揃います。なんなら山でも揃います。

これです。これがドームの凄さ。しかも、専門性はいりません。小学生が見よう見真似で30分くらいで理解していましたから。

このあたりの詳しいことは、おいおい説明していきますね。

(つづく)